観阿弥
更新日:2024年6月4日
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観阿弥の像
能楽の大成者 観阿弥は名張市小波田で初めて猿楽座(後の観世座)を建てました。
その後、足利三代将軍義満の絶大な庇護を受け「能楽」として京の地で開花し、伝統芸能の一つの頂点になりました。
観阿弥創座の地
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能舞台
奈良県との境、三重県名張市上小波田地区。国道165号線にそって小波田の里があります。里をとりまくゆるやかな山、近くを流れる一筋の小川をはさんで、田や畑が広がっており、緑の繁った鎮守の森があります。きれいな木立ちに囲まれた坂道を登ると、そこが観阿弥ふるさと公園です。ヒノキ造りの能舞台や東屋などがあり、まわりの木々の緑に映えて、大きな碑が見えます。
この公園は観阿弥の偉大な功績を後世に伝えるため整備されたもので、毎年、11月の第1日曜日には「観阿弥祭」が行われ、能楽愛好家による仕舞や地元の子ども達による狂言などが演じられています。
※令和6年度の「観阿弥祭」は、11月17日に開催予定。
田楽・猿楽
日本の古典演劇の代表的存在である「能」は、江戸時代までは「猿楽の能」とか、単に「猿楽」とか呼ばれていました。猿楽は唐時代以後に中国で盛んだった散楽の名に由来し、中国伝来の芸能と日本古来の芸能とがとけ合って発達した雑芸・遊芸のことで、その芸に従事する役者や座(同業組合のような組織)をも意味していました。「散」の字がサルに近い音で伝えられたと見えて、散楽は仮名では「さるがく」または訛った形の「さるがう」と書かれ、漢字でも「猿楽」と書く例が増加します。平安時代中期の「枕草子」や「源氏物語」などに用例が見られる「さるがうごと」「さるがうがまし」が、<滑稽な言葉・冗談>や<道化じみている>などの意味であるのも、猿楽が滑稽な所作やセリフを主としていたことの反映でしょう。物まね・曲芸・歌・踊り・手品など雑多な芸が入っていましたが、その中から歌と舞の部分が、とくに猿楽(または猿楽能)として発達をみたのです。
田楽は、もとは農民たちが、田植えの時に笛や太鼓でにぎやかに歌い、踊った舞いのことで、豊作を祈る農村の民俗から発展した芸能です。
田楽も猿楽も、神社の祭礼や寺の法会にはなくてはならぬ行事で、大きい神社や寺は専属の田楽座や猿楽座をかかえていたのです。田楽でも猿楽でも、それを演じるのは田楽師・猿楽師とよばれる専門の芸人で、彼らは仲間を集めて座という同業組合を作っていました。こんにちの楽団とか劇団とかいうものに当たります。人々は祭りやお寺の会式に、田楽や猿楽が来ると聞けば、我さきにおし寄せ、時の経つのも忘れて喝采を送りました。なお、「座を建てる」ということばを用いていますが、それは猿楽を演じる建物を造ることではなく、猿楽の一座を組織することなのです。
観世丸
観阿弥は田楽や猿楽という歌舞が唯一の娯楽であった時代に生きた猿楽師の一人で、元弘3年(1333)伊賀の国に生まれました。(ただし、大和盆地南部を本拠とする山田猿楽の出身との説もあります)幼名は観世丸、本名は清次といいます。伊賀の人という説ですが、伊賀のどこで生まれたかはっきりしません。学界でも問題になっている、上野の上島家の文書によれば、観阿弥は伊賀国阿蘇田(現在の名阪国道、上野インターチェンジ付近)の豪族、服部元成という人の三男として生まれ、母は河内国玉櫛庄楠正成の兄姉ということです。父の元成は上島家に生まれ、服部家を継いだので、観阿弥の本名は、服部三郎清次になっています。
「観阿弥創座之地」の記念碑の裏面には、次のような申楽談義の一文が刻まれています。
- 此座の翁は弥勒打也
- 伊賀小波田にて座を建て初められし時
- 伊賀にて尋ね出したてまつりし面也
意味は「観世座に伝わる翁の面は、弥勒という能面師が作ったものである。父の観阿弥が伊賀の小波田で、初めて猿楽の座を建てた時、伊賀で手に入れたものである」ということです。
能楽者としての出発
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能
観阿弥は少年のころ、長谷(奈良県)の猿楽師の家に預けられました。観阿弥の家も猿楽に何かの関係があって、両親はこの子を猿楽師に仕立てようとしたのでしょう。能楽大成者観阿弥が、偉大な芸術家としての生涯を送る第一歩はここに始まります。長谷で猿楽のわざを身につけた青年観阿弥は、そのころ、とりわけ猿楽の盛んだった大和(奈良県)近江(滋賀県)摂津(大阪府)丹波(兵庫県)の方面へ勉強の旅に出て、西に東に休むことなく、あちらの田楽座、こちらの猿楽座とたずねまわって芸の練成に努めました。30歳のころ、観阿弥は一座を建てる決意をします。自分自身の座を作って、猿楽界の中央に乗り出そうという希望は燃え上りましたが、それには有力な後援者が必要です。また資力も要るわけです。観阿弥は、妻と幾人かの弟子を連れて、妻の実家を訪れます。
座を建てる
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創座の碑
南北朝時代、小波田の里に竹原大覚法師という領主がいました。観阿弥の妻は、この領主の娘です。一座を建てようとする観阿弥が、いま小波田へやって来たのは、父大覚の力を頼ってのことです。大覚は娘の夫のために、心からの協力を惜しまなかったのです。そのおかげで念願の一座が誕生します。氏神の境内で観阿弥は喜びにあふれ、新しい一座による初めての猿楽を奉納したことでしょう。こうしたゆかりの地、名張市上小波田に「観阿弥創座之地」の碑が建っており、観阿弥の偉業をたたえています。
創座の年がいつであったかははっきりしません。かりに30歳前後とすれば、ちょうど長子世阿弥が生まれた頃です。後に父観阿弥の志を継いで、能楽をさらに高めた世阿弥は、幼年時代の幾年かを小波田の里で過したにちがいありません。まもなく観阿弥は大和の結崎に移り、新たに結崎(観世)座を組織して大夫となります。そして、由緒の古い円満井(金春)座・坂戸(金剛)座・外山(宝生)座と並んで、春日興福寺に参勤する大和猿楽四座の中に位置を占めます。奈良県の川西町史によれば「この四座という数については、春日神社の祭神四座に関係のあるものと考えられ、春日社興福寺を背景とした大和猿楽は、早く武家貴族社会に取り入ったが、なかでも観世は室町将軍家の庇護のもとに不動の基礎を築きました。大和四座の発祥については、一応研究しつくされ、明らかになっているが、決め手となる史料にこと欠くうらみもあって、詳細な点については不明です。観世については、観阿弥結崎清次によって、伊賀国名賀郡小波田に創立された猿楽座であることが知られており、「申楽談義」の能面について語られた条に基づいてそのことは明らかである」と述べられています。中世の興福寺は春日神社と一体で、大和一国の守護を兼ね、強大な勢力を持っていました。そこの行事に参勤して庇護を受けることは、猿楽にとってこの上なく望ましいことだったのです。「観世」は観阿弥の芸名ですが、猿楽座の活動が本芸である猿楽よりも能を主体とするようになってから、大夫の芸名が座名のように用いられるようになって、結崎座よりも観世座の名の方が世間に通用するようになったようです。
観阿弥の芸風
当時近畿地方にはたくさんの猿楽座があって、たがいにわざを競い合っていました。その中で観阿弥の率いる結崎座は、他を引き離して人気の絶頂に立ちました。その秘密は次の諸点にまとめることができます。
- 田楽といわず、猿楽といわず、他流のよいところは細かく学びとって、自分のものとした。
- 田楽や猿楽は、もともと民間のいやしい芸能であったが、これを優雅なものに高め、上流の武士の間にも喜ばれるものにした。
- 田楽・猿楽と並んで、曲舞という歌舞があって、テンポの早い軽快なリズムとメロディーで人気を集めていた。観阿弥はこれを採用して猿楽をさらにおもしろくした。
- 序・破・急という演技の原理を工夫した。(ゆるやかな動きから次第に早くなり、最後に最高潮に達する演)
- 猿楽は物まねが急所の一つである。観阿弥は物まねがうまく老人・美女・鬼などどんな姿になっても真に迫った。
- 自分で多くの台本(謡曲)を作り、自分のレパートリー(曲目)をたくさん持っていて、他座を圧倒していた。
観阿弥は広い階層の人々から支持され、それだけに芸域の広い能役者でした。天下にその名をとどろかせたのも、彼の演技力と、基本となった物まねから幽玄の美を求めた作品の創作力、さらに能の音曲的な改革を加えたことに起因します。
将軍義満と観阿弥父子
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子ども狂言・以呂波
文中3年(1374)5月、観阿弥42歳、京都の今熊野宮の祭礼で、能の大会が催された時、観阿弥は「翁」を舞いました。「翁」は能楽では神聖な曲目とされ、最長老が舞うしきたりになっていたのですが、観阿弥は多くの先輩をさしおいて、この名誉の役に選ばれました。能楽界の第一人者という評判が、すでに京の都にもとどろいていたのです。
この日、18歳の若い将軍足利義満も、能を見るのは初めてでしたが、そのみごとな芸にすっかり感心してしまいました。12歳の美少年、世阿弥の舞も将軍の目にとまります。これが契機となって、観阿弥・世阿弥父子は将軍義満に取り立てられ、その保護によって能楽はますます発展と隆盛におもむくことになります。この出来事のあった文中3年は能楽の歴史の上で、重要な年とされ、今でも”能楽の紀元元年”といわれています。
今熊野宮の能楽出演から10年、観阿弥の芸はますます円熟し、観世座の大夫として、また能楽界の指導者として多忙な毎日を送っていました。元中元年(1384)の初夏、観阿弥は、五月四日に駿河の国の浅間神社の御前で法楽の能を舞い、その花やかな舞に見物人は貴賤を問わず一様にほめたたえました。観阿弥は52歳の高齢でしたが、老い木に魅力のある花が散らずに残っていたのです。そして、観阿弥は五月十九日に52歳の生涯を閉じます。この浅間神社が、新宮か本宮かは、『風姿花伝』の記述のみでは不明ですが、観阿弥当時の守護職今川氏の崇敬する新宮には観世宗家の建てた観阿弥の顕彰碑があります。
世阿弥
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子ども狂言・連吟
父親観阿弥が世を去った時、世阿弥は22歳。父に劣らぬ天才で、少年時代からの父の教育と、たゆまない稽古と研究で、立派な新進能楽師に育っていきます。父の遺業を継いで能を洗練し、芸術と称するに足るほどにその質を高めていきます。
彼は幼名鬼夜叉・藤若、通称三郎、実名元清、中年以後に用いた擬法名的芸名、世阿弥陀仏の略称が世阿弥・世阿です。観世父子、とくに世阿弥に対する義満の寵愛は異常なほどで、足利武将らは義満の機嫌をとるために世阿弥を引き立てたくらいです。観阿弥の後に世阿弥が出なかったならば、能楽がどこまで発達を見たか疑問です。父子二代の苦心の上にはじめて能楽は大成することができたのです。
世阿弥は父よりももっと多くの台本を作りました。その数は100を超えています。こんにち伝わっている謡曲の半分以上は彼の作品です。世阿弥はまた、多くの能楽論も書き残しました。これは今でも世界に通用するすばらしい芸術論であることに、学者たちも驚いています。「ただ美しく柔和なる体、幽玄の本体である」といって、日本美の特徴の一つである幽玄の美しさを、能楽の根本としているのも、その深い芸術論から出ています。
世阿弥は81歳まで長生きしましたが、これほども大事業を成し遂げた人物にしては、その晩年は不幸でした。世阿弥を保護支援した義満はとっくに世を去り、足利義教が将軍となっていましたが、わがままな人物で、義教の怒りに触れたためか、永享6年(1434)72歳の時、佐渡が島に流されました。老いの身に、離れ島での罪人生活は、たいへん苦しいものであったに違いありません。やがて義教が将軍をしりぞき、世阿弥は許されて京に帰ります。もう80歳近かったようです。そして嘉吉3年(1443)、この偉大な芸術家は永遠の眠りにつきます。以来550年余りの歴史が流れ、能楽は今や外国の有名な劇場で上演されるほどに世界的な芸術になりました。能のふるさと、名張の小波田の里の碑にやどる観阿弥・世阿弥父子の魂は、いま目を輝かせてこの隆盛ぶりを眺めていることでしょう。