名張藤堂家邸
更新日:2023年11月9日
名張藤堂家邸跡
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名張藤堂家邸
城下町名張を語る上で欠くことが出来ないのが名張藤堂家邸跡です。
津藩藤堂家の一門で寛永13年(1636)から明治維新まで11代にわたり、名張に居を構えた藤堂宮内家の屋敷跡です。現在残されている屋敷は、宝永7年(1710)の名張大火で焼失した後に再建された殿館の一部で「中奥」「祝間」「圍」などの私的な生活を送る建物です。
この屋敷とともに、「豊臣秀吉朱印状」「鉄唐冠形兜・一の谷形兜」「朱具足」「藤堂高吉公一代記」「羽柴秀吉・丹羽長秀の書筒」など学術的にも貴重な文化財が、平成3年に名張藤堂家から市に寄贈されており、平成4年に保存修理事業が完了した屋敷とともに一般公開されています。
- 開館時間:午前9時から午後5時
- 休館日:月曜日、木曜日と年末年始(12月29日から1月3日)
ただし、月曜日・木曜日が祝日にあたるときは、その翌日。 - 入館料:一般 200円、高校生 100円、小中学生 無料
名張藤堂家邸跡+夏見廃寺展示館 共通入場券300円 - 所在地:名張市丸之内54-3
- お問い合わせ先:(電話番号:0595-63-0451)
祝間 東より望む
旧正門(太鼓門)
中奥
名張藤堂家について
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桔梗紋(名張藤堂家家紋)
名張藤堂家は、藤堂高虎の養子高吉にはじまる。『藤堂宮内少輔高吉公一代之記』によれば高吉は、織田信長の重臣丹羽長秀の三男として、天正7年(1579)近江佐和山城に生まれ、幼名を仙丸と称した。天正10年(1582)本能寺の変で信長死去の後、羽柴(豊臣)秀吉の所望により、弟羽柴秀長の養子となる(天下を望む秀吉が、柴田勝家を討ち滅ぼすため丹羽長秀と縁を結ぶためであったといわれる)。天下を手中にした秀吉は、天正16年(1588)秀長の嗣子に甥の中納言秀保を立てたため、仙丸を家来に嫁がせようと考えていた。この時、秀長の家来であった高虎には、子どもがなく、仙丸を養子に望んだが、秀長は同意しなかったという。しかし秀吉の命により高虎の養子となり、名を高吉と改め、従五位下宮内少輔に任じられ1万石を給された。
文禄、慶長の役には、高吉は高虎に従って渡海し慶長2年(1597)7月10日には、秀吉から朝鮮在陣の褒詞(豊臣秀吉朱印状)を受けている。
慶長3年(1598)秀吉が没すると高虎は、徳川家康に味方し慶長5年(1600)関ヶ原の戦いでは、高虎、高吉とも戦いに加わり戦果をあげる。この後高虎は、伊予半国20万石余を拝領し今治城主となり、高吉も城下に屋敷を構えた。
慶長13年(1608)高虎は、伊賀国と伊勢のうち安濃津に国替えとなるが、高吉は、家康の命により今治に残り、2万石を領し、寛永12年(1635)伊勢国へ替地になるまでの27年間を今治ですごしている。
この間、大阪冬の陣と夏の陣には、高虎軍に加わり軍功をあげている。しかし高吉の領した2万石は、高虎の知行の内に含まれ、その後、参勤交代の制度が始まっても、高虎は高吉には認めなかった。寛永7年(1630)高虎は75歳の生涯を閉じ、家督を実子の高次が継ぐと、高虎の跡を継ぐべく養子となった高吉は、家臣の格を甘受することとなった。
寛永12年(1635)幕府より伊予と伊勢国内2万石との替地の命がでると、藩主高次の命により、伊勢2万石のうち5千石を伊賀国の名張周辺と替地し、翌年正月、高吉は名張に移住した。
高吉は、かつて筒井定次の家臣松倉豊後守や高虎の家臣梅原勝右衛門らが居館を構えた古城跡に殿舎を構えるとともに、家臣や伊予から従ってきた商人、職人らの住居を定め、城下町としての体制を整え名張の町の発展の基礎を築き、寛文10年(1670)92歳の生涯を名張で終えた。
高吉の死後、次男以下3名に5千石が分知され1万5千石となり、その後11代高節で明治維新をむかえた。子孫は、現在東京に在住する。
【名張藤堂家歴代当主略伝】
代 | 諱 | 生年 | 没年 | 襲封 | 退任 | 院号 |
1 | 高吉(たかよし) | 天正7(1579) | 寛文10(1670) | 寛永13(1636) | 寛文10(1670) | 徳蓮院 |
2 | 長正(ながまさ) | 慶長19(1614) | 天和2(1682) | 寛文10(1670) | 天和2(1682) | 清涼院 |
3 | 長守(ながもり) | 正保4(1647) | 元禄16(1703) | 天和2(1682) | 元禄16(1703) | 恵明院 |
4 | 長源(ながもと) | 元禄2(1689) | 享保1(1716) | 元禄16(1703) | 享保1(1716) | 光俊院 |
5 | 長袚(ながひろ) | 元禄11(1698) | 安永5(1776) | 享保1(1716) | 享保20(1735) | 可昭院 |
6 | 長美(ながよし) | 享保17(1732) | 寛保1(1741) | 享保20(1735) | 寛保1(1741) | 瑞明院 |
7 | 長旧(ながひさ) | 元文3(1738) | 寛政9(1797) | 寛保1(1741) | 寛政9(1797) | 顕光院 |
8 | 長教(ながなり) | 安永8(1779) | 文政13(1830) | 寛政9(1797) | 文政13(1830) | 正眼院 |
9 | 長徳(ながのり) | 文化8(1811) | 元治1(1864) | 文政13(1830) | 元治1(1864) | 彰烈院 |
10 | 高美(たかよし) | 文政7(1824) | 元治1(1864) | 元治1(1864) | 元治1(1864) | 道光院 |
11 | 高節(たかもち) | 明治20(1887) | 元治1(1864) | 明治2(1869) | 自性院 |
名張藤堂家邸について
右図:名張藤堂家旧邸図
藤堂高吉は、寛永13年(1636)伊予国今治から替地により名張に来住すると、筒井定次の家臣松倉豊後守らが居館を構えた古城跡の高台に、新しく屋敷を構えた。しかしこの屋敷は、宝永7年(1710)の名張大火に類焼し焼失したため、新たに屋敷を再建した。焼失した最初の屋敷については、資料などが残っていないため規模、構造などは不明であるが、発掘調査で、建物の礎石配置の一部が、現地表下約1メートルで確認されている。
初期建物の礎石配置
現在の屋敷は、大火後再建された屋敷の一部であるが、藤堂家に伝わる屋敷図(名張藤堂家旧邸図)から屋敷全体の構成をみることができる。
屋敷図は、非常に複雑な造りをしているが、畳数と部屋の名前が記入されていて、使い方や建物の性格からいくつかの固まりに分けることができる。
まず、敷地の西南隅には正門(移築し現存する、通称太鼓門)を配置し、中にはいると玄関があり、つづいて広間、書院、上段といった接客や儀式用の機能をもつ部分や役所、勘定所、詰所といった日常の公務を処理する公式の場で、いわゆる表向きの部分がある。
これに対して東側には、釜屋、板本、肴部屋といった屋敷全体で使う湯を沸かしたり調理したりする裏方の部屋がある。
屋敷中央にある当主が公務の為に詰めた居間から廊下づたいに北西に進むと、中奥、祝間、梨子之間、亭などと記された部屋を中心に塀で囲まれた一郭がある。この部分は、中奥の記載があるように、公式の場である表に対して、公務を離れて私的な日常の生活を送る場としての「中奥」の部分であったと考えられる。
この中奥の東側には、山水の間、座敷、居間といった部屋を塀で取り囲んだ別の一郭がある。これには南側に女中部屋が取り巻いていて、当主が日常使う中奥に対して、奥方が日常使うための居間で「大奥」に相当する部分と考えられる。このように複雑な造りに見える藤堂家邸も機能的に整然と区別されており、江戸時代の大名屋敷(上級武家屋敷)の在り方として共通したものである。
現存する屋敷は、屋敷図中の中奥を中心とした部分で、祝間、次、囲(茶室)、湯殿などの部屋と枯山水の庭は宝永7年以後再建された屋敷の一部であり、蔵と西北部の便所、給湯室は、昭和57年からの整備事業で新築したものである。
現存建物の屋根を見ると、小屋根が交差して複雑な形をしている。これは、この部分の建築が一時期にされたものではなく、徐々に整備され、増築されてきたことを示すもので、建築時期も宝永の大火後まもなく東側の祝間が建てられ、天保の初め頃に西端の囲(清閑楼)が建てられたことが推定されている。
いづれにしてもこの藤堂邸は、現在まで残っている上級武家屋敷の数少ないものであり、それも表の部分ではなく、残されることの少ない、当主の日常生活の場である中奥部分であることは特筆されるものである。
名張藤堂家関係資料 兜(鉄唐冠形兜・鉄一の谷形兜)
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兜
名張藤堂家関係資料は、津藩藤堂家の一門で近世初頭から明治維新まで11代にわたり名張に屋敷を構えた藤堂宮内家に所蔵された資料です。当時の上級武士の生活文化を示すと共に、津・上野・名張に拠点を持つ藤堂藩政の実体を知る上でも貴重なものです。
3285点もの資料が市指定(平成8年7月5日指定)の文化財として指定されています。
両方とも桃山時代(16世紀)の作で、唐冠については「慶長軍記」に、藤堂玄蕃亮が唐冠の兜に鳩胸の胴丸(鎧の一種で、桶側のように胴を円く囲み、右脇で合わすように造ったもの)を付けたことが記されています。当時は珍重された形式の兜で、豊臣秀吉をはじめ多くの武将が用いました。一の谷形の名称の由来は“一の谷の合戦場”となった鉄拐・鉢伏の両山を形に取ったといわれ、「武蔭叢話」にもこれを被った戦国武将の武勇伝が記されています。
朱具足
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朱具足
藤堂采女が、大阪夏の陣(1615)に使用したと伝えられ、正しい名称は「碁石頭素懸威二枚胴朱具足」と言います。兜・胴等はじめ、小具足にいたるすべてが朱一色で塗られ、実用のために作られたものです。朱具足としては、近江彦根の井伊家に伝わる兜が頭形のものが代表的ですが、こちらは桃形をしています。
羽柴秀吉・丹羽長秀の書簡
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羽柴秀吉・丹羽長秀の書簡
縦31センチメートル、横48.5センチメートルで、羽柴秀吉と丹羽五郎左衛門長秀(藤堂高吉の実父)から、筒井順慶にあてた陣中命令の書状です。天正10年(1582)6月13日、山崎合戦の当日、明智光秀討伐について順慶に指令したもので、その内容は「三七様(織田信孝=信長の三男)は今日、高槻(大阪府)に陣を取り、明日は西岡(京都府)に陣を取ることになっているから、その方(順慶)は山城(京都府)へ出陣するように」と記されています。
豊臣秀吉朱印状
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豊臣秀吉朱印状
縦46.7センチメートル、横67.6センチメートルの壇紙に書かれたもので、日付の「七月十日」は慶長2年(1597)の7月10日と考えられています。藤堂高吉は、水軍副将を命じられた藤堂高虎に従って出陣した際、陣中で秀吉から朱印状(花押の代わりに朱印を押した公文書)による慰問文を受けたものです。心身への健康の配慮や激励の言葉と共に、帷子・道服(道中着で羽織のようなもの)を1着ずつ贈るという内容です。
柳生但馬守の書状
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柳生但馬守の書状
慶長5年(1600)6月、藤堂高虎は会津の上杉景勝追討に向かい、高吉も従軍。9月の関が原の合戦にも高吉は関東から転戦し、奮戦して成果を上げました。これらの合戦で共に従軍した柳生但馬守宗矩は高吉より8才年長。この書状は、高吉からの贈り物に対する礼状で、両名の親しい間柄がうかがえます。