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名張市

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古代

更新日:2015年3月26日

大地から聞こえる古代の記憶

  • 上空から見た古墳の様子

    美旗古墳群・馬塚(国史跡)

  • 縄文土器の画像

    縄文式土器

  • 寺の跡の画像

    夏見廃寺(国史跡)

 今から1万年前後まえの遺物がいくつか出土している名張。その頃の人びとは大自然の恵みを受け、漁労や狩猟によって生活の糧を得ていました。丘陵上にある白早稲遺跡(百合が丘)からは、当時の中心的な道具であった石槍や石鎌が多数出土しています。
 また、名張川河岸の下川原遺跡からは、縄文時代後期の住居跡や墓地、祭祀用の土偶などが発見されており、人びとの暮らしを知る手がかりになっています。
 弥生時代になると名張でも稲作がはじめられ、多くの集落が形成されました。安部田、下川原、蔵持など市内各地で集落跡が発見され、土器や石器、銅鐸などが出土しており、弥生人の生活、文化をうかがうことができます。
 古墳時代に入ると名張にも多くの豪族が現れ、大小様々な古墳が築かれました。現在名張市に残される古墳のなかでも、4世紀から6世紀にかけ築かれたと考えられる美旗古墳群(国史跡)は、当時の名張と大和朝廷の関係を知る上で重要なものとなっています。
 大和朝廷の支配体制が確立した飛鳥・奈良時代。壬申の乱において大海人皇子は、大和から宇陀川(名張川)を渡って名張の地に入り近江へと向かいました。この大海人皇子が天武天皇となり朱鳥元年(686)に没した後、その御霊を祀るために建立されたのが昌福寺、いわゆる夏見廃寺(国史跡)と考えられています。
 都が奈良から京都に移り平安の世になると、大化の改新以来の公地公民制は完全に崩れ、いわゆる荘園制が急速に発達し、名張でも貴族や寺院、神宮などの荘園が現れました。11世紀の名張の所領関係を見ると、神宮領、藤原朝成領、東大寺領、藤原実遠領などに別れており、荘園の境界線をめぐってしばしば争いが起こっていたようです。

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千年の時を越えふるさとの叙事詩が奏でられる。まほろばの地、名張の夜明け