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中世

更新日:2015年03月26日

武士の政治がはじまった時代中世名張の群像

  • 中世

    木造聖観音立像
    (国文化財)

  • 中世

    北野天神縁起
    (県文化財)
    黒色翁
    (県文化財)

平安時代末期から次第に台頭しはじめた武士勢力は、源平合戦を経て武士による政治支配体制を確立しました。鎌倉時代には全国で有力武士団が形成されましたが、名張を含む伊賀地方ではその形成は遅れ、小勢力が分裂して存在するのみで、この状況は織田信長による統一まで続きました。蒙古襲来の時期辺りから名張でも荘園領主の支配から脱却して、在地領主が中世封建領主になっていきました。いわゆる黒田悪党と呼ばれた人びとの出現です。東大寺黒田庄に属していた大江清定や観俊、伊賀房覚舜などは、公然と領主に反抗する態度を見せています。
 伊賀地方は他国と比べ守護の勢力が非常に弱く、こうした悪党の討伐を幕府から命じられても一向にできなかったのです。
 室町時代になってもこうした状況は続き、南北朝の対立が激しくなると名張の小武士団(悪党)の多くは南朝方に組し、幕府勢力と対立しました。しかし、時代が下るにつれ度々戦乱も起こるようになると、小集団のままでは自らの存在が危険な状況となり、有力守護大名の被官となったり互いに連合する勢力も現れました。
 小武士団が割拠するなか互いの勢力を監視するため、伊賀国ではいわゆる伊賀忍者が生まれました。伊賀忍者の多くは北伊賀に存在し、南伊賀に位置する名張では赤目に百地三太夫が現れますが、この百地三太夫も実在の人物かどうか判っていません。
 
  
 こうした武士団形成とともに、東大寺と関係の深い名張において、東大寺二月堂のお水取りに使用される松明の調進行事(市文化財)や、時期ははっきりしないものの1350年から60年にかけて名張の小波田の地で観阿弥が猿楽座(観世座)を開くなど文化的側面が発展したのもこの中世と言う時代でした。
 

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